2023年12月20日水曜日

コラム『ココロとカラダの薬箱』第16回

 岩槻の情報紙「ら・みやび」

NO.655より転載

パラリンピック物語2


中村は愛車を手放して何とか

2人の選手の渡航費と滞在費を工面した。

医療スタッフの看護師、事務方についても

何とか目途が付いたようです。

ようやくロンドン郊外の

ストーク・マンデビル病院に到着です。

ヨーロッパやアメリカから選手が集まっています。

笑顔でハイタッチする様子を見た中村に違和感がありました。

サポートらしき人がいない。

選手の大半は、飛行機を乗り継いで1人でやって来たようです。























日本選手は、砲丸投げとスラロームなどにエントリーしています。

いよいよ試合開始です。

1人の日本人選手が勢い余って車いすごと転倒しました。

選手は倒れたままです。

しかし、審判や会場係の人に動きがありません。

観覧席の日本人スタッフが慌てて飛び出して行きました。

その後も競技中にトラブルがある度にスタッフがサポートしました。



翌日は晩餐会です。大いに盛り上がりました。

日本選手の近くに大会運営委員(車いす)が挨拶に来ました。

そして言いました。当大会に参加してくださり感謝します。

しかし、次回からの参加は辞退して欲しい。

皆、びっくり仰天です。彼は静かにこう言いました。

私たちは「自立」が原則です。

助けが無ければ試合が続行できない方は

スポーツ選手とは言えません。

確かに彼らは転倒しても自力で這い上がります。

もちろん日本選手も自力で這い上がれます。

ただ、周囲の人が起こしてくれるのが当然と

当事者も周囲も思い込んでいたのです。



できないことに支援を受けることは恥ずかしいことではない。

できることまで支援を受けることこそ恥ずかしい。

この時始めて中村たちは「自立」の意味を知りました。

65年経った現在、我が国の「障がい者スポーツ」は世界レベルです。

「車いすプロ・テニスプレーヤー」の国枝慎吾は、

国民栄誉賞を受けました。

65年の歳月が此処まで変えたのです。






















もう一つ大切なことがあります。

パラリンピックには「聴覚障がい者」や

「知的障がい者」は参加していません。

独自の世界大会を開催しています。

聴覚障がい者の世界大会は、パラリンピックよりも歴史が古い。

1924年のパリ大会が最初です。

現在は、「デフリンピック」として

世界100か国以上の人たちが集う大きな大会です。




知的障がい者の世界大会もあります。

「スペシャルオリンピックス」です。

これは、故アメリカ大統領ケネディの妹ユニスの発案で、

1968年にケネディ家の敷地内で行われたのが始まりです。




NPO親子ふれあい教育研究所 元大学教授

(心理学) 藤野


NPO法人親子ふれあい教育研究所の
ホームページ




2023年12月19日火曜日

コラム『ココロとカラダの薬箱』第15回

 岩槻の情報紙「ら・みやび」

NO.654より転載

パラリンピック物語


「パラリンピック」は、今でこそ

身体の不自由な人たちのオリンピックとして定着しましたが、

その原点は1948年、今から75年前に肢体不自由者

(脊髄損傷者など車椅子利用者)のスポーツ大会が

イギリスの「ストーク・マンデビル病院」の

敷地内で行われたことに発します。

これを第1回のパラリンピックと位置づけています。




 

















そして、1964年に日本で開催された

ストーク・マンデビル大会から現在の

肢体不自由・視覚障がいが参加する

「パラリンピック」が始まりました。

「パラリンピック」は和製英語です。

Pallaギリシャ語で

(もうひとつの」)+OlympicParalympic(パラリンピック)です。





















日本で生まれた「パラリンピック」の名称が、

全世界に広がったのです。

そこには1人の若き医師(中村裕)の熱意と

尽力の物語があります。

リハビリテーションの概念が、

現在の様に定着していない時代のことです。

中村はストーク・マンデビル病院の試みに

いち早く注目し渡英しました。

現地をつぶさに観察して、身体機能回復に

スポーツが有意義であることを確信しました。























中村は、東京オリンピックの2年前の

1962年に2名の車椅子の選手をストーク・マンデビル大会に

参加させようとしました。

今から65年前の話です。

しかし、渡英するのに選手の旅費すらありません。

中村はともかく付き添いの医療スタッフや事務方もいます。

東京オリンピックの2年前です。

高度経済成長時代、国民こぞって舞い上がっていた時代です。

それにも関わらず障がい者スポーツ大会に

日本選手を外国に送るなど誰も考えられなかったのです。

今とは違い障がい者スポーツへの関心が低かったわけです。

困った中村は、愛車を手放し選手の旅費や滞在費に宛てました。

ここから先の話、「珍道中」の顛末は、

私が厚生省に入省したのが昭和48年。

3年目に偶然先輩から聞いた話です。

予定の800字をオーバーしました。

続きは次号とします。 


NPO親子ふれあい教育研究所代表 藤野信行(元大学教授)