岩槻の情報紙「ら・みやび」
NO.654より転載
『パラリンピック物語』
「パラリンピック」は、今でこそ
身体の不自由な人たちのオリンピックとして定着しましたが、
その原点は1948年、今から75年前に肢体不自由者
(脊髄損傷者など車椅子利用者)のスポーツ大会が
イギリスの「ストーク・マンデビル病院」の
敷地内で行われたことに発します。
これを第1回のパラリンピックと位置づけています。
そして、1964年に日本で開催された
ストーク・マンデビル大会から現在の
肢体不自由・視覚障がいが参加する
「パラリンピック」が始まりました。
「パラリンピック」は和製英語です。
Pallaギリシャ語で
(もうひとつの」)+OlympicでParalympic(パラリンピック)です。
日本で生まれた「パラリンピック」の名称が、
全世界に広がったのです。
そこには1人の若き医師(中村裕)の熱意と
尽力の物語があります。
リハビリテーションの概念が、
現在の様に定着していない時代のことです。
中村はストーク・マンデビル病院の試みに
いち早く注目し渡英しました。
現地をつぶさに観察して、身体機能回復に
スポーツが有意義であることを確信しました。
中村は、東京オリンピックの2年前の
1962年に2名の車椅子の選手をストーク・マンデビル大会に
参加させようとしました。
今から65年前の話です。
しかし、渡英するのに選手の旅費すらありません。
中村はともかく付き添いの医療スタッフや事務方もいます。
東京オリンピックの2年前です。
高度経済成長時代、国民こぞって舞い上がっていた時代です。
それにも関わらず障がい者スポーツ大会に
日本選手を外国に送るなど誰も考えられなかったのです。
今とは違い障がい者スポーツへの関心が低かったわけです。
困った中村は、愛車を手放し選手の旅費や滞在費に宛てました。
ここから先の話、「珍道中」の顛末は、
私が厚生省に入省したのが昭和48年。
3年目に偶然先輩から聞いた話です。
予定の800字をオーバーしました。
続きは次号とします。
NPO親子ふれあい教育研究所代表 藤野信行(元大学教授)
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