2023年12月19日火曜日

コラム『ココロとカラダの薬箱』第15回

 岩槻の情報紙「ら・みやび」

NO.654より転載

パラリンピック物語


「パラリンピック」は、今でこそ

身体の不自由な人たちのオリンピックとして定着しましたが、

その原点は1948年、今から75年前に肢体不自由者

(脊髄損傷者など車椅子利用者)のスポーツ大会が

イギリスの「ストーク・マンデビル病院」の

敷地内で行われたことに発します。

これを第1回のパラリンピックと位置づけています。




 

















そして、1964年に日本で開催された

ストーク・マンデビル大会から現在の

肢体不自由・視覚障がいが参加する

「パラリンピック」が始まりました。

「パラリンピック」は和製英語です。

Pallaギリシャ語で

(もうひとつの」)+OlympicParalympic(パラリンピック)です。





















日本で生まれた「パラリンピック」の名称が、

全世界に広がったのです。

そこには1人の若き医師(中村裕)の熱意と

尽力の物語があります。

リハビリテーションの概念が、

現在の様に定着していない時代のことです。

中村はストーク・マンデビル病院の試みに

いち早く注目し渡英しました。

現地をつぶさに観察して、身体機能回復に

スポーツが有意義であることを確信しました。























中村は、東京オリンピックの2年前の

1962年に2名の車椅子の選手をストーク・マンデビル大会に

参加させようとしました。

今から65年前の話です。

しかし、渡英するのに選手の旅費すらありません。

中村はともかく付き添いの医療スタッフや事務方もいます。

東京オリンピックの2年前です。

高度経済成長時代、国民こぞって舞い上がっていた時代です。

それにも関わらず障がい者スポーツ大会に

日本選手を外国に送るなど誰も考えられなかったのです。

今とは違い障がい者スポーツへの関心が低かったわけです。

困った中村は、愛車を手放し選手の旅費や滞在費に宛てました。

ここから先の話、「珍道中」の顛末は、

私が厚生省に入省したのが昭和48年。

3年目に偶然先輩から聞いた話です。

予定の800字をオーバーしました。

続きは次号とします。 


NPO親子ふれあい教育研究所代表 藤野信行(元大学教授)


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